みなさんこんにちは!知多半島の情報誌『EDIT知多半島』のライター田村です。今回も知多半島へお越しの際にぜひ知っていて欲しい情報をお伝えいたします。

知多半島のちょうど真ん中あたりにある半田市からは、全国でも知名度のある人や会社やブランドなどが排出されていきました。その中でも半田市を知る上で町の発展に大きく関わってきた「発酵」は、半田市をもっと知って楽しむために是非知っておきたいキーワードのひとつです。ということで、今回は「発酵」から見る半田市の魅力を探ってみたいと思います。

半田市はなぜ大きな町になったのか?

そもそも町が大きくなるとはどういうことだと思いますか。人があつまれば、それぞれが住居や仕事を求め、町は徐々に大きくなります。人が集まる理由は様々ですが、少なくとも日々の糧を得ることは必要となりますよね。つまり、仕事があり、稼ぐことができるのなら、人は集まりやすくなります。半田市が大きな町になったのは、商売が繁盛して仕事を求めて多くの人が生活できる状況であったことが大きな理由のひとつです。では、具体的に何が商売としてうまくいっていたのか、探っていきましょう。

日本でも有数の”穀物庫”すぐそば

穀倉地帯が広がる濃尾平野といえば地理の授業で耳にしたと思いますが、どこのことか覚えていますか。愛知県の要、名古屋市や一宮市があるあたりのことです。そんな穀物が大量に生産されていた平野からすぐ南に位置する知多半島。そんな好条件を見逃すはずもなく、穀物を使った日本酒・酢・醤油・味噌などの醸造物は、知多半島の至る所で製造されてきました。残念ながら全て整った完璧な条件の土地!というわけではなく、水の確保は苦労があったようで、各地で井戸を掘っていたことがわかっています。不幸中の幸いというのか、井戸水が適度な硬水だったことが、結果的にはおいしいお酒をつくることに役立ちました。そして冬は寒すぎないという温暖な気候もまた、おいしいお酒造りに役立ちました。

商売の基本

知多半島では、いかに酒や醸造製品をつくることに適した環境であったか想像できたかと思います。それなら、なぜ知多半島の中でも半田市が大きな町になったのでしょう。商売をやっていらっしゃる方ならピンときた方もいるかもしれませんね。そうです。商品をつくったところで、消費者へ届かなければ価値になりません。つくった商品を届ける輸送システムが必要なわけです。今では道路が日本中に張り巡らされ大きなトラックもあるので、工場の立地の重要性は昔ほどではありませんが、それらがなかった時代には立地は商売がうまくいくための必須条件でした。

船との相性も抜群

製造量や販売量が多ければ多いほど利益は出しやすいですのは、今も昔も変わりません。そこで必要になるのが、当時最も商品を大量にかつ遠くまで運べる輸送方法だった「船」です。船を使うのはもちろん海の上。しかも、浅瀬に近寄ると難破してしまうので、条件のそろった土地を港にしなければなりません。太平洋側を走って関東へも関西へも出やすい知多半島は、船との相性の良い場所でした。

知多半島の酒「中国酒」を売れ!

確かに沢山運んだところで、消費してもらえなければ無駄になります。そこまで大きな船で運んででも消費が間に合わない地域といえば、全国から人口が集まってくる江戸です。当時から江戸(東京)と上方(京都付近)の中間地点だったこのあたりの酒は「中国酒」と呼ばれていたそうです。江戸での評判は良かったようですが、残念ながら上方の酒には及ばないという評価だったのも事実。しかし、ここから知多半島の酒に光が差します。1789年~1801年の約20年間、幕府が上方の酒を規制したのです。そうなれば、これまで灘や伏見といったブランドの酒を飲んでいた江戸の人たちが買いに走ったのが中国酒です。江戸でシェアを拡大した中国酒の需要に対応すべく、知多半島の酒蔵と船はフル稼働で江戸に商品を運び続け、商売はますます繁盛しました。

半田運河沿いにある 【国盛り酒の文化館】
半田運河沿いにある
【国盛り酒の文化館】

【国盛り酒の文化館】
住所:半田市東本町2-24
電話:0569-23-1499
開館:10時~16時
休館日:毎月第3木曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始、盆休み
入館料:無料(電話での予約が必要)
駐車場:あり(無料)

巨大な市場となった廻船ビジネス

そんな景気を支えた職種の一つに、今でいう運送会社のような港と港をつなぐ船を持つ「廻船問屋」が沢山ありました。その中でもよく名前が出るのは、内海の内田家や常滑の瀧田家などです。今ではすでにその姿を見かけることはなくなってしまいましたが、当時の廻船問屋の勢いを感じたい方は各町にある資料館を訪ねてみることをオススメいたします。そうして知多半島の貿易業務を担った廻船問屋たちは地域のビジネスを支えたことにより、知多半島の町には新たな事業者が増え続け、そして地域全体が豊かになり発展してきたというわけですね。

【尾州廻船内海船船主 内田家】 http://www.town.minamichita.lg.jp/main/syakyou/uchidake/page_top.html
公開日:毎週土・日曜日、国民の祝日(年末年始を除く)
3月~9月:9 時30分~16 時30分(入館は16時まで)
10月~2月:9 時30分~16 時(入館は15 時30分まで)
※日曜日の公開日には、みなみちた観光ボランティアガイドによる案内があります。
料金;1人1回300円(中学生以下は無料)
※20名以上の団体は、1人1回270円です。
所在地:愛知県知多郡南知多町大字内海字南側39番地
お問い合わせ:南知多町社会教育課(南知多町総合体育館内)0569-65-2880

【廻船問屋 瀧田家】 https://www.tokoname-kankou.net/contents/miru01-05.html
所在地:愛知県常滑市栄町4-75
TEL:0569-36-2031
駐車場:身障者の方がご利用の場合はお申し出下さい。
開館時間:9:30〜16:30
休館日:毎週水曜 年末年始
入場料:200円(20名以上の団体は150円)中学生以下は無料

日本酒から酢造りへ

いつまでも同じ状況が続かないのが世の中というわけで、1806年に勝手作り例(酒の規制緩和)が出されると、江戸に上方の酒が流通し始め中国酒の成長に陰りが見え始めます。時間がたつにつれ、知多半島の酒造業者もバタバタと廃業をし出しました。そんな壊滅的なだけ気を受ける中行動を起こしたのが、今では世界中のスーパーで見かけるお酢のブランド「Mizkan(ミツカン)」の創業者である中埜又左衛門です。中埜氏が注目したのは、当時江戸で流行していた「早鮨(はやずし)」です。早鮨は、今我々が想像するにぎり寿司の原型とされており、2、3貫で手軽におなかいっぱいになるまるでハンバーガーのようなファストフードだったということです。そこに商機をみつけ舵を切った結果、現在の「Mizkan」の基礎をつくったということです。

Mizkanの本社ビルと MIM(ミム)は半田運河のすぐそば
Mizkanの本社ビルと
MIM(ミム)は半田運河のすぐそば

酢造りに起死回生のチャンスあり

酒が売れなくなったから酢を作って、時代の波をつかんだといえば簡単そうに聞こえますが、実は大変な苦労があったのです。それは、日本酒に乳酸菌が入り込むと酢になるということから想像ができると思います。発酵は目に見えない菌の働きであるが故に、周囲に日本酒の蔵が点在する環境で酢造りが疎まれるのは当然でしょう。しかし、今まであまり活用法がなかった日本酒の絞り粕を原料とし、日本酒の売り上げが下がる中で行動を起こした中埜氏は、結果としては大成功を収めました。まさに先見の明があったということでしょう。

今では観光地の半田運河

日本酒や酢といった様々な商品を生産してきた半田市。それらの商品を運ぶために重要だった船。そして船を効率よく使うために使われたのが半田運河でした。現在もMizkanの工場は半田運河沿いにあり、半田運河に入ってきた船に大きな樽を載せて運搬していたことを想像しやすいです。もちろん自然災害などの問題も多くあったのですが、半田運河が半田市の経済を支えていたのです。今でも半田運河は観光スポットとして活躍しています。Mizkanの歴史を学べるミュージアムもありますので、ぜひ自分の目で半田市の足跡を確かめてみてはいかがでしょうか。

【ミツカンミュージアム MIM(ミム)】 http://www.mizkan.co.jp/mim/
休館日:木曜日(木曜日が祝日の場合は開館、翌金曜日が休館)、年末年始
駐車場:第一 約40台 第二 約100台(バス8台有)
住所:愛知県半田市中村町2-6
電話番号:0569-24-5111

次回の記事もお楽しみに!

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